作品を評価する場において「かもしれない」などという文言は本来つかうべきではない。だが、私は最後まで分からなかった。この『Ghostwire: Tokyo』という作品が、最後まで「何をする」ゲームなのか分からなかったのだ。なお、「何をする」という言葉は「作品がプレイヤーに対し提示する課題や果たすべき目的」を指しており、「何を楽しむ」という意味ではないことに注意してほしい。楽しむという体験は、心理的な感覚ゆえ、誰かから与えられずともゲームとしての報酬体系の外に、能動的に発生させることが可能であり、だからこそただ山になる『Mountain』のような「課題の存在しない」ことを主題としたゲームが成立するのだ。
では「何をする」ゲームなのか分からないことがどういった問題を生むかというと、ゲーム側が用意する報酬体系――どのような課題を達成すると何が具体的なご褒美として待っているのか――をプレイヤーが理解できなくなり、「何がご褒美なのか」もわからなくなる。よって、ゲームが進行している実感を掴むことが難しくなり、本来あるはずの報酬体系の外側に楽しみを発見できなければ達成感や満足感を得られない状態になってしまう。ゲームとして用意したはずの行為が、人によっては単なる作業であると捉えられる危険性も考えられる。
https://automaton-media.com/articles/impressionjp/20220330-197106/
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Source: Y速報